山形 『歴史探訪』 行ってきました
ようやく忙しかった8月のピークを過ぎ、今年もまた、多くのお客様との出会いがあり、楽しい思い出を残すことができました。
夏休み期間が終わり、ひと段落ついた9月の初め、ちょっとお休みをいただいて、山形まで歴史探訪の旅をしてきましたのでその話題を。
息子の学校は9月中まで夏休み。
どこかに出かける場合は、基本息子の行きたいところがメインになる。。ということで、
今回もまた、戦国武将にまつわる行き先となりました。
歴史に超うとい私も、息子からいろいろ教わり、少しずつですが戦国武将、城郭、仏像のことについて学んできました。
今回は、前田慶次の供養塔、上杉謙信と歴代藩主の廟所、上杉神社、上山城、霞城公園 といった、山形の歴史をギュッと凝縮させた工程で行ってきました。
<堂森善光寺> まず最初に訪れたのは 前田慶次の供養塔がある堂森善光寺。 | |
<堂森善光寺> 真言宗豊山派の寺院で807年からあるらしいです。 前田慶次は晩年はここで生活していて、1612年に死去したといわれていますが、その後、慶次を偲んで、供養塔を建てたそうです。 | |
<堂森善光寺> 当時、大般若経の写経事業を行っていたことを思わせる、ちょっとした体験! 一文字写経にチャレンジです。 でも、ほとんどの文字は既に記入済。 あと残っているのは、『呪』とか『婆』だけしかありません>< 確かに縁起がよくなさそうで、残るのも分かりますが、せっかく来たのでその証を残していくことにしました^^ | |
<堂森善光寺> おおおお、テンションあがります。 いわゆるコスプレ写真。 あの、傾奇者の衣装を着て写真撮影を楽しみました^^ | |
| <米沢藩主上杉家墓所> 初代謙信公から12代斉定公までのお墓が整然と並んでいるのは圧巻ですが、説明を読むと、上杉氏の移封(国替え)にともなって、越後の春日山から、会津若松へ、その後1601年に米沢城本丸へ移されたのち、明治9年に現在の廟所に移送されたらしいです。 死んだ後も、引っ越しの連続だったようですね。 そして、1つ1つの墓は、入母屋造りの廟屋に収まっているのですが、9代以降は宝形造りに変わっています。説明によると、火葬が基本だったのが、9代以降は土葬に改められたと書いています。当時の財政難により、廟屋の簡略化、経費削減のための土葬への変更だったのだろうかと、思いを馳せてしまいますが、実際はどうだったのでしょうか? |
<上杉神社> 米沢藩の財政難と政治腐敗で藩政は破綻寸前にまで陥ったことがあったようですが、10代藩主上杉鷹山は、藩政と財政の再建の為、大倹令を発布、また自らの生活費を大幅に切り詰め、奥女中も大幅なリストラを行った。他にも殖産興業政策、籍田の礼、世襲代官制度の廃止、備荒20ヵ年計画など改革は次々と実行され、鷹山の時代に米沢藩は息を吹き返す事になった。 と、あります。上杉鷹山は大きく祀られていました。 また、併設の稽照殿(宝物館)には、あの有名な 直江兼続の「愛」の兜や、上杉景勝公所用「日輪雲前立黒漆塗巾着形兜(抹頭形兜)」などの展示があり、 | |
<こんにゃく番所> お昼は、ココ。「こんにゃく番所」。 すべての料理が、こんにゃく料理。こんにゃく料理のコース料理をいただきました。 お通し、先付、お刺身、揚げ物、お蕎麦、全てがこんにゃくなんです!びっくりです!おいしいんです!! | |
<こんにゃく番所> こんにゃくのお刺身。鯨刺し風。 | |
<こんにゃく番所> サービスでいただきました。こん肉焼き(こんにゃくの焼き鳥風)。 | |
<霞城公園> 山形城は、1356年創建されたと伝えられています。山形県山形市霞城町にあった城。別名で霞城、霞ヶ城と呼ばれる。 最上義光(もがみよしあき)によって拡張され、堅固な平城として有名だったそうです。 現在は、山形城の復元工事が計画されていて、本丸一文字門石垣等の復元工事が進められていました。 |